信仰による義

信仰の父アブラハムの失敗

礼拝メッセージ

2022.8.21 礼拝説教
テーマ:信仰による義
説教題:「信仰の父アブラハムの失敗」
テキスト:創世記12:9~13、20:1~3

12:9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
12:10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
12:11 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。
12:12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。
12:13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」

20:1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
20:2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
20:3 その夜、神が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」

創世記12:9~13、20:1~3

アブラハムの失敗

失敗その①

一つ目の失敗は、神に示されたのではなく、ただ飢饉を恐れてエジプトに下ったことだった。彼はエジプトで、妻サラ(当時の名はサライ)に自分の妹だと言ってくれと頼む。確かに妹であることは間違いなかった。彼女とは異母兄妹であったのだから(創20:12)。しかし彼のこの時の言い分はどうだろう。(創12:12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。12:13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」)サラは、アブラハムの予想通りファラオの宮廷に召し入れられる。そして、ファラオから羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを与えられたのだが、神は妻サラのことでファラオとその宮廷に大きなわざわいを下した。
アブラハムは勝手な言い分によって、多くの人々を巻き込んでしまった。その結果エジプトを追い出されることになったが、神は、多くの財産を与えてあわれみを施してくださったのである。

失敗その②

失敗の二つ目は、飼っていた羊のための草を求めてゲラルに移住するが、自分の身の安全を守るためにまたも妻サラを妹だと偽った。ゲラルの王アビメレクは夢の中で神の忠告を受ける「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」(20:3)。王は驚き、あわててこのことをしもべたちに語った。またアブラハムを呼んで、彼の釈明を求めた。彼は二つの理由を挙げる。一つは、神を恐れることのない地方で自分を守るため。もう一つは、事実サラは腹違いの妹だ、と。しかし、王アビメレクは「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ。」(20:9)と正当な意見を述べている。神は異邦人の王にも、神を恐れる心を与えておられた。王はサラをアブラハムに返しただけでなく、銀千枚に値するような多くの家畜と奴隷を彼に与えた。また自分の領地のどこに住んでも良いとさえ言ってくれた。アブラハムも王のために祈った。神はこんな罪を犯したアブラハムの祈りを聞いてくださり、王とその一族の病気をいやしてくださった。(20:17 そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。20:18 【主】が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。)

信仰による義

子がないアブラハムは、神に天の星を見せられる。あなたの子孫はこのようになると言われた時、彼は単純に信じた(15:6)。「信じた」は、ヘブル語アーメンの語源としてのアーマンの派生語である。つまりアブラハムは、主のことばを確信し、ただ信頼したのだった。それが、神によって義と認められた。義とは正しいという意味があるが、ここでは律法を守ったとか、道徳的に完全であったという意味ではない。神のことばを「信じた」、そのことが義と認められたのである。これは「信仰義認」というが、法的用語であり、一方では無罪とされ、もう一方では、神の前に正しい者としての権利が与えられることが宣言されることを意味する。

信仰による義は、信じるすべての人に認められる

パウロは、ロマ書やガラテヤ書でアブラハムのことを語っている。
アブラハムは、自分とサラのからだが「死んだも同然である」(ロマ4:19)時でさえ、子どもが与えられるという「望みを抱いて信じました」(ロマ4:18)。子孫の繁栄を約束してくださった神には、「約束されたことを成就する力がある」ことを堅く信じていたからだ(ロマ4:21)。それは「主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰が義とみなされる」ためだった(4:24 、25)。これこそ信仰義認の目的である。
そしてアブラハムは、私たち異邦人と無関係ではなかった。彼によって、異邦人を含む「すべての国民が祝福される」と、はっきり記している(ガラテヤ3:7 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。3:9 ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。)。
パウロは、キリストを信じる信仰による以外に、神から義と認められる道はないことを語っている。この真理は、今も全く変わらない。信仰義認とは、罪人がキリストを信じることによって、その罪を赦され、キリストの義のゆえに、義と認められるということなのである。

結び)神は私たちの行いを見るのではなく、信仰を見ておられる。イエスの救いを信じる人すべてを義と認めてくださるのだ。そして、これは永遠に変わることがないのである。