大宣教命令の目的
弟子を生み出す

大宣教命令の目的

礼拝メッセージ

2023/1/1 元旦礼拝説教
【テーマ】  弟子を生み出す
【説教題】 「大宣教命令の目的」
【聖書箇所】 マタイ28:16-20

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイ28:16-20

○ 2023年が明けました。今年もよろしくお願いいたします。

今年も生き生きした礼拝を捧げよう

礼拝は捧げるもの

    1.コロナの大影響を受けた2020年から3年が経とうとしています。私たちの教会だけではなく多くの教会がその活動を大幅に縮小することになりました。反面、今までしていなかったオンライン礼拝が行われるようになりました。

    2.礼拝を捧げること自体は止められていません。ですからもし、「礼拝を受けられなかった」とか「礼拝を守れなかった」という言い方をするとすれば、それはおかしい言い方です。礼拝は捧げるものだからです。

    3.オンライン礼拝の場合気をつけないと「礼拝を捧げる」ことが薄れる可能性があるかも知れません。もちろん、会堂に来ていても出席したことで礼拝を捧げた気になるのも注意すべきでしょうね。また、礼拝には様々な奉仕が必要です。その奉仕をしたことで礼拝を捧げた気になるのも要注意なのです。真に礼拝を捧げましょう!

礼拝は最も大事なこと

    1.礼拝は神が私達に望んでおられる最も大事なことといえると思います。今日、元日にはあちこちの神社仏閣は大賑わいでしょう。しかし、それは礼拝なのでしょうか? それこそイエス時代にユダヤ人が陥った形骸化した礼拝の姿ではないでしょうか。神殿に行き、生贄を届けたら礼拝したことになるというような。

    2.真の礼拝は ヨハネ4:24

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。 

ヨハネ4:24

とイエスが言われたように場所とか形ではなく大切なのは聖霊と私達の一体化した礼拝です。今は実に異端や惑わしの多い時代です。聖霊ではなく、悪の霊が働いています。それを見抜いて正しい礼拝をすべきなのです。

    3.また、 

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ローマ12:1

 という礼拝です。イエスがご自身をささげてくださったので、私達は神をじかに礼拝できるようになったのですから、私達も自らを捧げるのです。つまり、主の前に出て、心からの賛美、祈り、献金を捧げ、御言葉を聴いて行うのです。

今年も大宣教命令を実行しよう

大宣教命令とは?

    1.さらに神の望んでおられることを考えてみましょう。神は私達に何を望んでおられるのでしょうか? 今さら言う間でもなく、皆さんよく知っておられる「大宣教命令」があります。これは神が私たちに命じられていることです。それが今日のテキストです。「大宣教命令」という言葉は有名ですが、皆さんはその命令を守っておられますでしょうか?

    2.この命令の主目的は「伝道しなさい」ではなく、「弟子としなさい」です。19-20節に4つの動詞 行って 弟子としなさい バプテスマを授け 教えなさい が、ありますが、主要動詞は一つです。それが 弟子としなさい なのです。つまりイエスの願っていらっしゃるのは弟子をつくることです。イエスご自身その3年半と言われる公生涯の中で重要視されたのも弟子づくり、弟子訓練でした。

弟子となり、弟子をつくる

    1.弟子とするためにすべき事は「教える」ことです。では、その教える内容は わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るよう です。つまり、御言葉です。今は「聖書」が手元にありますから本当に幸せです。御言葉を教えるのは牧師だけではありません。みんなに聖書があるからです。

    2.弟子をつくるために御言葉を教える私達がまず弟子となっていることです。そのために御言葉を学び、御言葉を実行することではないでしょうか。

● 使徒8章でエチオピアの高官が馬車でイザヤ書を読んでいました。エルサレムに礼拝に上ったという信仰心に篤い人だったみたいです。彼はエルサレムで高いこのイザヤ書を買ったのでしょう。ところが、彼は理解できませんでした。そこで、聖霊はピリポを遣わされました。彼は馬車の横を走り、呼びかけ、乗り込み、聖書を教えたのです。すると、高官は洗礼を受けると言ったのです。つまり「弟子となる」と意志決定したということです。 使徒8:31「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」 なのです。教えてくれる人が必要なのです。そして 8:35 ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。 とあるように、私達もイエスの福音を教えるのです。

★ さあ、私たちのすることは?!