第二コリント5:14-17

キリストにあって新しい

礼拝メッセージ

2023.4.30礼拝説教
 説教者:八木原海伝道師
 説教題:『キリストにあって新しい』
 説教箇所:第二コリント5:14-17

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

第二コリント5:14-17

 よく暗唱聖句でも覚えられる5:17にある通り、私達はイエス様によってフレッシュにさせていただけます。今日は、私達の人生が、どんな風にキリストにあって新しいのか御言葉から見ていきましょう。

愛にとらえられる

 クリスチャン人口が少ない日本で信仰を持ち続ける中で、私達は時に疎外感を覚える時があるかもしれません。私は神学校に入る前、退職時の送別会で、ある先輩は少し皮肉って「聖なる世界に行ってしまうんだね」と言われました。その時に改めて考えさせられたのは、イエス様のために生きて行くというのは、大多数の人とは異なる生き方だということです。しかし同時に、イエス様が私を愛してくださっているということが、こんなにも自分を大胆にしていると気づき、私はむしろイエス様を崇めました。
パウロという人は大胆でした。物質的な問題だけでなく、同じ民族に苦しめられることや、権威の失墜など目に見えないところでの困難も多かったはずですが、パウロはイエス様を伝え続けました。言い換えるなら、イエス様の愛はパウロをとらえて離さなかったのです。パウロにとってイエス様は身近な存在で、そのイエス様に愛されている実感があったのでしょう。
私たちにも、パウロと同じようにイエス様の愛が注がれています。その証拠が14,15節です。

一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

第二コリント5:14-15

全ての人のためにイエス様が死なれ、また生きてくださる、これがイエス様の愛です。この愛にお応えし、イエス様に愛にとらえられ歩んでいきましょう。

霊的に認知する

 続けて、私たちは、イエス様を信じて生きて行く中で、霊的なことに目が見開かれるという新しい経験をします。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

第二コリント5:16

霊的と反対の意味でパウロは「肉」と言っています。霊的な世界を説明するのは少し難しいですね。不思議なことに、イエス様を信じている私たちは、何か感覚的に霊的な世界を知っているかもしれません。体が本当に限界な時に、主にお頼みするとなぜか元気が湧いて、なぜか足腰に力が入る経験があるかもしれません。また、見通しの立たないことがあって、その中でも忠実に主に仕える中で、神様が様々な形で助けを与えてくださる経験があるかもしれません。
私達は、霊的な意識のおかげで、イエス様からの愛を受け取ることや、神様のお役に立つこと、またイエス様に命をあずけるようなことまでもできるのです。
北海道の北見の教会の祈祷会で奉仕をしていた時、「○○さんが東京に滞在中に財布をなくしました。本人は断念し帰ってきました。見つかるように祈ってください」という祈祷課題が出ました。みんな真剣に祈りましたが、私は内心「東京と北海道・・・これは無理かな」と思いました。ところがその数週間後、なんと財布は見つかりました。理屈ではなく、「神様は祈りを聞いて、この兄弟を助けてくださったんだ」と霊的に考えたら、腑に落ちました。
神様の働きに仕える私たちは、霊的な捉え方があるのだと知り、またイエス様との関係も霊的な次元で深められていきたいです。

造られる

 最後に、私達は存在そのものが新しく造られた者です。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

第二コリント5:17

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました、とあります。まったくの新しさとは、何かを引き継がせたり、進歩させたりすることから生まれません。「造る」ということなのです。
神様は、イエス様を地上に送り、私達のために十字架にかけ、よみがえらせ、私達の内にはない、信仰、希望、愛を、イエス様を通して私達の霊に「造る」ことを決められたのです。
私達はイエス様を信じるなら、霊的に目が見開かれていき、「ああ、私は本当に新しくされた」と経験させていただけるのです。また、私達が伝道するということは、キリストにあって新しくされる人を間近で見ていくことなのです。誰でも、イエス様との関係にあるなら、その人を苦しめる状況は、まさに古い物となって過ぎ去ります。霊的な世界で全く新しく造られ、その日その時間、神と生きる人生が始まっていくのです。この新しいことをされる神様の働きに携わらせていただこうではありませんか。

結び
愛にとらえられ、霊的な世界を認知し、そして、造られるという生き方が、イエス様にある全く新しい生き方です。今週も日々を聖霊に励まされ、素晴らしいイエス様を賛美しつつ歩んでいきましょう。