180°違う景色

礼拝メッセージ

【説教題】 「180°違う景色」
【聖書箇所】 ピリピ人への手紙3:7
【説教者】八木原知宏師

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

ピリピ人への手紙3:7

本日は、3:7を通してキリストの十字架と復活の具体的な恵みをみなさんのそれぞれの日々の生活において発見し、その恵みに応えて生きる。その励ましを受けるときになることを期待します。

180°違う景色

ピリピ教会の状況

ピリピ人への手紙

ピリピという街は、ほとんど聖書について聞いたことのない人々が住む町でした。しかし、パウロから福音を聞き、信仰を持つ人が起こされ、彼らは共に集まり、伝道をはじめ教会が誕生しました。短い手紙の中に、パウロは必要を感じて手紙の中で「喜び」という言葉を16回繰り返します。2章には、『キリスト賛歌』が登場します。この讃美の前には「反対者」という言葉が初めて言及されます。反対者に負けないように、パウロはキリストを喜び、キリストに倣う一致を教えました。そして、3章は「反対者」とはどんな人か見えてきます。

教会の反対者である肉を誇る教え

3:7の前にパウロは「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。」(3:2)と、言います。
教会にとっての反対者とは「肉を誇る者」です。彼らは、肉を誇る教えがピリピ教会の人々の信仰を揺るがしていました。

信仰の表面化

私たちは生活において無意識に自分の信仰が行動や言葉で表面化する時があると思います。今日の言葉も、パウロの信仰が表面化された言葉だと思います。パウロにとって、神様とは、自分にとって得であったものを、キリストのゆえに損と思うにさせたお方のようです。逆のことを可能にする。キリストを信じた時、それが、福音の業だとパウロは体験したのです。

損と得

パウロの語る技法

パウロはよく逆説的な言葉を用いて、信仰やキリストを表現し、それらは、私たちのこころに良く残っています(例:「私は弱いときにこそ強い」Ⅱコリント12:10)。パウロはいつも語る相手と、語る目的のために言葉を選び、語る人でした。ここでパウロは、“損と得”という対比する言葉を自分の個人的な救いの体験に合わせて語ります。それは、ピリピの街で信仰を持った人々が間違った教えではなく、キリストに目を向け、信仰に立ち続けることを励ますためでした。

失う損

パウロは、「肉を誇る」という教えに対して、自分自身を引き合いに「それは損なことだった」と語ります。彼の損に思うことは人が価値を置き、救いの基準としたものでした。具体的に➀民族性②律法(3:4-5)です。どちらにおいてもパウロは人が羨むものを持っていました。この「損」という言葉ですが、損失、損害、不利益.と言う意味があります。聖書では、何かを失うことや、今よりももっと悪い状態になるときに使うこと言葉です。肉の教えである、人の基準に価値を置くことは「無意味」ではありません。何かを失い、マイナスになること。害をもたらし、今よりもっと悪くなることなのです。

プラスになる得

ここの“得”は、聖書ではパウロしか使わない言葉です。芸人の明石家さんまさんは、自分の娘に「いまる」と名付けました。「生きているだけで丸儲け」という思いが込められているそうです。生きているだけで、プラスになる。ここの“得”にも「もうける」という意味があります。どんどんプラスになること。今よりも状況がよくなること。豊かになること。これが「得」です。パウロはキリストに出会う前、自分がイスラエル人でパリサイ派の律法学者であるゆえに人生得していると自覚していました。

キリストの影響力

キリストの十字架と復活に生きる

パウロは、人に羨ましがられるものをすべて持っていました。しかし、今はキリストのゆえに“損”。人生に害をもたらすと言います。キリストのゆえの“得”とは、福音です。キリストの十字架の死と復活による救い。そのことを信じて得た神からの義を持つこと(3:9)。これこそが一番の“得”だとパウロは宣言します。神の義を与えたキリストだけが彼の誇りで、彼の人生まるもうけと言わせるものでした。

180度違う景色

神からの義とは、終わらない希望を持っていると言うことができるかもしれません。3章全体にキリストを誇る者の生き方は肉を誇る者と全く違うことを示唆します。この地上に目を向けるのではなく、天に目を向け、キリストを目指します。そして、最後にはキリストと同じ輝く体になる希望を知っています

終わらない希望

キリストの義を持つ者は、この地上の最後まで、希望があふれます。そして、その希望は、周りの人々にも流れ、キリストを証し、キリストに栄光を帰します。

結び

神の義を握り、御霊によって礼拝する私たちの目の前には、肉を誇って生きた時と180°違う景色が広がります。その景色は、キリストによる神の大きな恵みと希望を思い起こさせ、この心には喜びが溢れます。私たちのあふれるキリストによる喜びは、私たちの周りの人々に流れていくことを期待します。