福音のはじめ

礼拝メッセージ

2025/1/19 礼拝説教
【テーマ】  福音に生きる
【説教題】 「福音のはじめ」
【聖書箇所】 マルコ1:1-8
【説教者】藤井敬朗牧師

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

マルコ1:1-8

○ 1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。 と、「はじめ」とありますが、では、「続き」や「終わり」はあるのでしょうか? ある意味、ここに始まって、私たちのところにまで続いている。という風にも考えられます。そして、いよいよここから福音が始まるのだという書き出しではないでしょうか。

イエスに感動した人

マルコが福音書を書くことになったのは?

    1.マルコはヨハネとも呼ばれ、母の名はマリアで、エルサレムで裕福な家庭で生活したようです。使徒12:12にあるように彼の家は初代教会の集会にも用いられました。彼はバルナバの従兄弟で、パウロの第1回伝道旅行に同行しています。また、ペテロと親しかったので、ペテロの通訳者として活動しました。

    2.イエスの昇天後、使徒たちはあちこちで福音を語り続けました。ペテロも語り続けましたが、多くのローマ人がペテロの語ったことを文章にまとめて欲しいと願ったようです。そこで、マルコはペテロの語ったことを正確に書きとめていったと思われます。

本当の福音を伝えたかった

    1.マルコはその書き出しに「神の子」「福音のはじめ」という言葉を使いました。当時、皇帝は神と崇められ、アレキサンダーもアウグストも「神の子」と呼ばれました。また、王子の誕生が「福音」と言われていました。そのような中でマルコがイエスを「神の子」と呼ぶということは、大変危険なことでもあったのです。マルコはイエス・キリストが人々の考えているような単なる人間ではなく、完全な人間で、神であることを命に替えても伝えようとしました。

    2.「イエス・キリストの福音」と「の」が書かれていますが、これはイエス・キリストが語られた福音とも、「イエス・キリストについての福音」とも読めます。とにかくマルコは福音に感動し、それを書くことにしたのです。私たちは福音にどの程度感動しているでしょうか。

神の声を聴いた人

マルコの人生の始まり

    1.キリスト教への迫害がある中、マルコの母マリアは自分の家を集会所としていたようです。後にこの息子、ヨハネ・マルコが伝道者となっていくのですが、それは命の危険がいっぱいある中でした。しかし、福音が感動的であったので、彼は語り続けました。「福音の始まり」はマルコの人生の始まりでもあったのです。

    2.マルコの時代、迫害の中にある教会が生き生きと命を持っているのです。イエス・キリストの福音こそが人間にとって最も必要なものであって、マルコはこの福音を伝えずにはおれなくなったのです。

バプテスマのヨハネから始まる

    1.そのマルコが書いた福音書にはなんとイエスの誕生物語がありません。いきなりバプテスマのヨハネが登場します。ヨハネは後のエリヤとして預言された、主のために道を整える人でした。彼の生き方そのものが主のためでした。荒野はまさに当時の人々の心を表しています。そこには道が無かったのです。ヨハネは主への道を拓く人でした。

    2.荒野は人の住めないところというだけでなく、出エジプトでイスラエルの民は40年間荒野の生活をし、そこで神の守りと力を体験してきましたまた、荒野は人の声のない、神との交わりの場でもあったのです。ヨハネはそのように神との交わりの中、旧約聖書が成就し、いよいよ福音が始まったことを悟り、荒野から人々のところに出てきました。彼は荒野で神の声をはっきり聞いたのです。

イエスのしもべとなる人

聖霊によるバプテスマを授ける方

    1.バプテスマのヨハネが伝えたのは自分よりも後からお出でになる 私よりも力のある方 でした。ヨハネも力を持っていたようです。しかし、さらに力のある方、イエスがお出でになる。この方が救い主だというのです。この力とは 聖霊によってバプテスマをお授けになります というこの聖霊の力をいうのです。ヨハネは水のバプテスマしか授けることができません。当然です。牧師も洗礼式を司式しますが、私もできるのはここまでです。聖霊のバプテスマは主にしかできません。

    2.イエスは地上生涯で人に水のバプテスマ(洗礼)を授けておられません。また、聖霊のバプテスマも授けておられません。しかし、マルコはこの福音書を書いている時には、聖霊のバプテスマを体験しています。ですから、この時のための福音が始まったというのです。

  福音はイエス

    1.マルコが伝えている福音とは人間の王子の誕生ではありません。どんなにすばらしい人が生まれても、水のバプテスマ止まりです。聖霊のバプテスマを与えるお方でなければ本当の幸せはないのです。世の人々が何かを福音と呼び、幸せを感じようとしていましたが、イエス以外にそれはあり得ないのです。

    2.主は地上の人間の中で一番優れた方というのではなく、 私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません という神なのです。私たちも本当の福音のために主のしもべとされたことを喜ぶのです。このしもべ(奴隷)は世の奴隷と違います。自ら進んで主の足下にひれ伏し、ひたすら主のしもべとなりたく願うものです。これが福音です。

● 主にしかできないことを私たちは求めるべきではないでしょうか?

★ 主にひれ伏して生きていくことに喜びが、幸せがあるという、この福音に生きていきましょう。水のバプテスマ止まりでない、主による聖霊のバプテスマをいただいて福音の中を生きていきましょう。