岩を打ってしまった
従うとは

岩を打ってしまった

礼拝メッセージ

2022/11/13 礼拝説教
【テーマ】  従うとは
【説教題】 「岩を打ってしまった」
【聖書箇所】 民数記20:1-12

20:1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。
20:2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
20:3  民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
20:4 なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
20:5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。
20:7 【主】はモーセに告げられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

民数記20:1-12

○ あなたは神に願い、その願いを聞いていただいた、つまり願いが叶った経験はどれくらいありますか? ある人は断食祈祷したことで願いが叶ったそうです。するとその方は他の人にも「断食祈祷すると祈りが聞かれるよ」とアドバイスをされたのです。同じように徹夜祈祷するととか、その他色々あるかと思います。そして、それをすることで祈りが聞かれるように思い込みやすいのです。出エジプトで起こった出来事の一つに今日の話があります。

人のせいにしたが

死活問題

    1.荒野の生活では色々大変なことがあったことが考えられます。私はキャンプ場でも無いところでキャンプした経験があります。まず、トイレをどうするか? 水はどこにあるか? 寝るときの安全は? 雨が降ったときはどうするか? 等々です。イスラエル人は200万人ほどいたと言われる出エジプト。大変だったと思います。

    2.その大変だったことの一つが水でした。 そこには、会衆のための水がなかった とあります。死活問題です。すると、人々の間からは当然ですが、文句が飛び出てくるわけです。「エジプトに留まっていれば良かったんだ!」等と言い出してモーセを責めるのです。本当は今良いところに居るのです。しかし、前の方が良かったと言うのです。

逆恨み

    1.このようにせっかく導いてくれた人を恨むのです。人は自分を悪者にしたくはありませんから、問題が起こると誰かのせいにしたがるのです。(しかし、人によっては「自分が悪いんだ!」と逆に過度に自分を責める人もいてこれも問題です)。イスラエル人の多くがモーセを恨みました。逆恨みであることは聖書を読んでいる皆さんにはわかることです。


    2.恨まれた、辛い立場にあるモーセとアロンはどうしたでしょうか? 彼らも神に恨み言を言ったのでしょうか?  20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。 二人がしたのは神に会うということでした。神の栄光が現れたので、神も積極的に会いに来てくださいました。

神の言葉に従うとは

前の時は杖で岩を打つように命じられた

    1.以前 

さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。

出エジプト17:6

 ということがありました。この時、神はモーセに杖で岩を打つように言われました。そうすることで岩から水が吹き出てイスラエルの民の喉を潤すことができました。

    2.今回も水の問題に出くわしましたわけですが、神は 

20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」 

と、言われました。今回は 岩に命じれば ということでした。

今回も杖で岩を打ってしまった

    1.ところが、モーセは今回も岩を杖で打ちました。水は出たのですが、 

20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 

と言われてしまうのです。

    2. 杖を取れ と言われたのですから、前と同じく岩を打つのだと思ってもおかしくないと思うのですが、今回は「命じなさい」でした。前と同じように岩を打つのでは無く、命じなければならなかったのです。神の言葉には力があるので、同時にその言葉に忠実さが求められるようです。

正しい決断をして実行する

マニュアル、パターンを求めてしまい安い

    1.私たちは何かしらパターンを見出してそれを繰り返すと安心します。学生が「この鉛筆を使うと良い成績が取れる」というように思い込んで試験には必ずその鉛筆を持っていくということもあるでしょう。また、良い意味でのルーチンワーク、良い習慣もあると思います。良いことをし続けると良い結果が出ますからね。

    2.しかし、神の言葉に従うということは必ずしも同じようにすることを命じられるわけではありません。聖書から何かしらパターンを見出そうという人達がいます。悪いわけではないのですが、「何かをすれば良い結果が出る」として、それをしさえすれば良い事が起こる、願いが叶う、というのはいかがなものでしょうか? 

    3.イエス様の癒しの記事を見てもワンパターンでは無いのです。ワンパターンだとこうすれば癒されると決める人がでてくるでしょう。神はワンパターンな神ではありません。

ただただ神の言葉に従うこと

    1.神は神の言葉に従う事を求めておられます。ですが、今私たちは「○○をしなさい」というような、モーセに神が命じられたような語りかけはそうはありません。私たちは神(イエス・キリスト)を信じる信仰をいただいています。そして聖霊が内住されています。そして聖書から神の大きなみこころを知っています。

    2.そこで、私たちは自分が神の前に信仰をもってどうするかを決めるのです。その決めることを祈るのです。平安が無ければ他の方法でしょう。平安を得れば実行して良いと思います。私たちの決断を神は祝福されるのです。だから聖書を大事にしなければなりません。聖書的で無いことを実行してはいけないからです。

★ 神は皆さんに御言葉を与えてくださいました。イエスを信じるだけで救われるという神のご計画の言葉です。そこからの人生は色々です。神の言葉に従ってください。そのために岩を打つのか、命じるのか、聞き分ける力を身につけましょう。神の声とそうでない声を聞き分ける信仰をいただきましょう。