自分を振り返ってみれば 2
神様は不公平?
「神様は不公平だなあ。友達はたった一度聞いただけでおぼえられるのに、僕は何度も聞かないと覚えられない」と、中学生の思春期の頃にはそんな風に思っていました。
ですから、母がクリスチャンであって教会に誘ってくれても「神なんかいるわけがない!」「神がいたら、こんな不公平はない!」「神がいたら戦争なんか起こるわけがない!」と言って、反発していたものです。
また、小学生の頃から科学に興味も持っていたので、中学生になると進化論は絶対正しいと思い込んでしまい、ますます、神のいない世界・宇宙を思うようになっていました。
生きる目的は無いと思った
神がいないと思い込んだ思春期、青年前期というものは心が荒れるものですね。「神なんていないんだから、俺が生まれてきたのは偶然だし、生きる目的も無い」「何のために勉強なんかしなければならないんだ」と思春期らしいことを言っていました。
そして、覚えられない私は勉強よりも楽しいことを探そうとし始めました。現代なら私は簡単にインターネットの危ない世界や、悪い友人とつるんでいたのではないかと思います。
幸い、あの頃、私の周りには良い友達がいたので、私は悪い道へと入っていかずにすんだ気がします。
それと、覚えが悪い私でしたが、小学生の時に勉強する習慣がついていたと思うのです。だから、こういう中学時代にも勉強をしたのです。習慣って大事です。
さらに私にはいくつもの助けがあったことを思い出すのです。振り返ってみるとこうした事が神様の守りであり、恵みだったのだとわかるのです。「あー、あの時に、神様の助け、守り、恵みがわかっていたら・・・!!」と少し残念に思うのです。
習慣はすごい!
まず、小学生の時になぜ勉強する習慣が身についたのかを振り返ってみますのと、低学年の時に「学校ごっこ」という遊びが一時的でしたが流行ったのです。先生と生徒になって授業をするのです。先生役をして教えると勉強がよくわかったし、生徒役をして質問をすると、勉強がよくわかったことを覚えています。
さらに4年生の頃だったか、宿題とは別に「自習帳」というのを作って、自主的に勉強をしたのを書き込んだノートを作ったら、先生がそれを誉めてくれたのです。しかも、それがクラス中に広まって、毎日「自習帳」を先生に提出することになったのです。自分で勉強するというのはこの時に覚えた気がします。
5-6年生の時は、今でいう発達障害の友達がいました。彼のために班で一緒に勉強することがしばしばあり、ここでも教え合うとよく分かったのです。
楽しい先生たちのおかげ
危なかった中学生時代も勉強を続けられたのは、理科の先生が面白かったからかも知れません。それと、美術と音楽の先生がとても楽しくて、学校嫌いにならなかったし、色んなことに興味を持つことができたので、他の教科に関しても勉強する気が出たのだと思います。こう考えると先生の影響は大きいなあと思います。
でも、やはり英語や歴史は苦手でした。時間をかけて勉強することにはやや慣れていましたので、何とか試験の時には平均点以上を取れたのですが、残念ながらどんどん記憶から消えてしまう脳でした。
これでは受験に差し支えます。中学2年のクラスはとても楽しいクラスで、遊びも思いきりできましたし、部活も楽しかったです。楽しい中学生生活だったからか、勉強もわりとできていたように思います。思いきり遊んだことは勉強することにも役だったと思います。あの頃はサッカーやソフトボール、近くの山で崖登り、川遊び、サイクリングなど面白いことがいっぱいでした。
やや荒れた時があった
中学3年のクラスは初め楽しかったのですが、2学期から荒れ出しました。すると、私の心も荒れてきました。教室の掲示板を殴って割ったり、掃除用具箱の扉も破りました。女の先生を教室に入れないようにして、授業をできなくしたこともありました。
荒れたクラスは楽しくありませんでした。次第に私は休み時間毎に隣のクラスに行くようになりました。そこで、みんなが受験勉強をしている姿を見てハッとしたものです。荒れた我がクラスでしたが、それでも個人的にはみんなこっそり勉強していました。
高校受験したくない、勉強し続けるより働きたかった私は「高校に行かない」と両親に言いました。が、こっぴどく父親に叱られ、1週間考えた末、クラスで成績一番の男子が受けようとしている工業高等専門学校(高専)なら大学に行かずに、すぐ社会に出られるとわかって、私も「高専を受ける」と言ったのです。一般の公立と違って早い時期の試験で、あっさり不合格でした。
勉強方法を考えた
高専を受けると決めても、私は記憶する勉強が苦手です。記憶の悪さは小学生の時、九九を覚えるのに大変時間がかかったことも思い出します。歴史は特に苦手で人名や年号、事件名などが覚えられないのです。英語も大変でした。単語を覚えるのなんてどれほど苦労したでしょう。未だにそうですが・・・いや、今はもっとひどいです。
そこで、私は勉強方法を考えなくてはなりませんでした。どんな方法がいいのか最初はわかりませんでした。好きな数学と理科はどんどんできるのですが、国語、社会、英語ときたらダメです。
でもその科目を分析しました。社会は地理は得意でしたが、歴史がダメなんです。英語はテストを見るといつもアクセントの問題が必ずいくつかあるのを発見して、アクセントでは絶対に点を取ることにしました。先ずはできるところからやって、できるところ好きなところを増やしたわけす。このやり方は当たりました。できるところが増えると頑張りたくなるのです。
次にテストで見直しができるようにしないとういけないことを感じたのです。そのためには50分の試験では40分以内に仕上げる必要があるのです。そこで、問題を指定時間の半分でやるようにしてみました。何度もやっているうちにできるようになり、見直しの時間ができました。すると、ケアレスミスなどを直すことができ、点数が上がりました。
この短時間テストのやり方を採用して、15-20分で1科目をやるという勉強方法を考え出しました。机の上にやるべき教科書・問題集を積み重ねて、15-20分で仕上げていくのです。その時間で仕上がらない時は積んだ教科書の下に回して、次の科目にかかるのです。全部終わるまでやらなくてはならないのですが、教科書が少なくなっていくのはとても楽しいものでした。
この方法は大学受験にも大変役立ちました。暗記物が苦手、記憶に留めるのが苦手な私が大学に入れたのはこういうところにあると思います。
この勉強方法の他に、反復学習をしました。私はなかなか覚えられないという自覚があったので、何度もやることにしました。その方法は、できなかった問題は解答を見て覚えて、30分以内にもう一度やるというものでした。でも、忘れていることが多く、また30分後にやることになります。できても、翌日もう一度やります。そして、さらに3日後、1週間後にもするのです。効果はかなり大でした。
反復学習の重要性は最近特に言われていますが、これは昔からあったことです。聖書にもこんな言葉があります。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
聖書・申命記 6:6-7
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
ユダヤの教育がよく取り上げられますが、それは「神様を忘れない」という教育でもあったのです。