良い家族??
家族って『いいね!』
先日(9月23日)、私の属する日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の本部地にある中央聖書教会に行ってきました。その日、恒例の関東北東教区の壮年・婦人集会がもたれ 家族って『いいね!』 というテーマで集会がもたれたからです。どういうわけか、今回は私を講師に招いてくださったのです。
このお話をいただいたときから私は一生懸命「良い家族とは?」ということを考えました。そのうち、「良い家族」と「家族って、いいね!」には違いがあるような気がしてきたのです。そのニュアンスの違いを感じながらも、知恵の無い私はなかなかその違いを上手く説明できず、このまま集会に突入するのはイヤだなと思っていました。その結果、「良い家族」と言えなくても「うちの家族って、いいね!」と言えることを発見したのです。何となくすっきりしたのですが、まだ説明は難しかったです。
子育て問題だらけ
私は高槻・新中野教会で合計26年ほど「子育ての会」を開いています。高槻では5カ所でその会をもち、毎回合計すると60-70名のお母さん方がお出でになっていました。新中野ではいつも数名の集まりなのですが、少ない人数というのはまたじっくり話せる良さもあります。
この26年間でお母さん方から受けた質問や相談というのは、「なかなか、おしめがとれない」「指しゃぶりは治るだろうか」「偏食が激しい」「チックがある」「アレルギーで大変」「お母さんの言うことを聞かない」「やたら反抗する」「じっとしていない」「すぐ叩く」などから「学校に行かない」「いじめで困っている」「しゃべらない」「自閉症だと言われた」「鬱かもしれない」「障害があるのだろうか」「リストカットした」「死にたいといっている」「家で金属バットを振り回した」「素手でガラス窓をたたき割って大怪我した」というような幅広いものでした。
また、子どもさんの問題では無く、お母さんご自身、あるいはご主人のこと、夫婦仲のこと、ご両親のことなどもたくさんありました。「夫が子育てに協力的で無い」「夫が家に帰ってこない」「夫婦の喧嘩が絶えなくて離婚を考えている」「子どもを叩いてしまう」「子どもが愛せない」「姑がやたら子育てにもうるさい」等々。
私には答えられない質問・相談も続出でした。このように、私の周りには家族の問題が絶えないのです。ですから。果たして「良い家族」って何だろうと考えてしまうのです。
夜回り先生から
「夜回り先生」で有名な水谷修先生の講演を聞いたり、本を読んだりすると、思春期の子どもたちの大変な話がたくさん出てきます。「死にたい」とメールしてきて、実際死んでしまった人が何人もあるというのです。夜の町を徘徊し、薬物にはまり込んでいく、家に帰らない子どもたち。親御さんはどんな気持ちだろうかと思います。
「あした笑顔になあれ」の18ページ「こころを閉ざして」に、このようなことが書かれています。
もし、みなさんが毎日「何をやっているんだ、急げ、急げ」とお尻をたたかれ続け「そんなことじゃだめだろう」としかられ続けたらどうなりますか。
こころを閉ざして
でも、いまの子どもたちは生まれた時から十数年間、特に小学校高学年から中学校・高校の間は、まさに後ろからお尻を叩かれ、追いつめられています。また、毎日「何をやっているんだ、がんばれ」と厳しい言葉にさらされています。
たしかに、それでも救われている子どもはいます。
それはある意味で生まれつき能力的にすぐれている子どもたち、あるいは、つらい家庭や学校という状況のなかにあっても、じつはあったかいお母さんがいたり、あったかい先生との出会いや、誰か優しい大人のとの出会いがあった子どもたちです。
でも、私はこの子どもたちはいまの日本のなかで全体の七割ほどだと思っています。三割ほどの子どもたちが毎日追いつめられ、毎日厳しいことばをあびせられる中で、自分を見失っています。「私なんかいなくていいんだ」「私がいることが親に迷惑をかける」「学校の授業についていけない、私なんてだめなんだ」と、毎夜、暗い時間になると、特に自分を責めています。
ここでいう七割の子どもたちをもつ家庭は「家族っていいね」と言えるのかも知れませんが、残り三割の子どもを持つ家庭ではどうでしょうか? また、「よい子だったのに、どうしてこんな事になったのでしょう?」と涙される多くの親御さんにも出会ってきました。
問題があっても良い
私がクリスチャンになった18歳のころ、牧師先生、役員の方々から、「クリスチャンホームをつくること」と言われました。「クリスチャンと結婚しなさい」と。
若いクリスチャンになったばかりの私には、クリスチャンと結婚するとすばらしい家庭になるかのように聞こえました。でも私の周りにはクリスチャンで無い方々の家庭でもとても仲の良い家族がたくさんありましたし、クリスチャンホームだけれど大変な家庭もありました。「いい家族」って何でしょう?
改めて、「いい家族」というより、「家族っていいね」と言えることが良いのだと思います。
クリスチャンホームになれば問題が無いわけでは無いのです。クリスチャンホームと呼ばれる家庭にも問題くらいいくらでもあるのです。大事なのは問題をどのように扱うか、乗り越えるかです。そこで「良い家族」とまで言えなくても、「うちの家族って、いいね!」と言えるようになればいいのだと思えたのです。
コルネリオの家族
使徒の働き10章に、コルネリオとその家族の救いが出てきます。
さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
使徒の働き 10:1-2
と、あります。全家族、神を恐れかしこみ、ユダヤ人に良くした人達です。自分たちの家族だけではなく、コルネリオ達はユダヤ人に良くした家族らしいのです。彼らは、異邦人でしたが、神様から忘れられることはなかったわけです。むしろ、ユダヤ人と同等に聖霊の恵みをいただくのです。イエス・キリストによる救いを家族全員が受け取るのです。
このコルネリオとその家族を考えると「良い家族」だなと思えるのです。全家族、神を恐れかしこみ、ユダヤ人に良くした人達です。自分たちの家族だけではなく、コルネリオ達はユダヤ人に良くした家族らしいのです。彼らは、異邦人でしたが、ユダヤ人の信じる神様から忘れられることはなかったわけです(もちろん神様はお一人ですから)。むしろ、ユダヤ人と同等に神様の恵みをいただくのです。イエス・キリストによる救いを家族全員が受け取って、喜ぶのです。
まだクリスチャンになっていない段階で、すでに彼らの家族というのはかなり自立したしっかり成長した家族であったように思えます。このような他の人達のことも思える家族は「いいね」と言える家族ではないでしょうか。
成長する家族
聖書の原則に従うと、幸せになるのは間違い無いです。しかし、原則というのはそれをどのように実行していくかが問われるのです。聖書の原則には厳しいことも多々あります。それを文字通り実行すると時には人を苦しめることにもなるのです。
聖書の原則の中にしっかりと埋め込まれているのが「愛」です。それも人間の持つ「愛情」を超えた深い愛です。イエス様が私たちのために十字架で身代わりになるような「愛」です。その「愛」を基にして原則が教えられています。ですから、「愛」を抜いて原則だけを貫くと、殺伐とした、厳しさだけが残ることになるのです。
イエス様はご自身は原則を貫き、罪も犯されない完璧な生き方をされました。が、その原則で私たちを裁きはなさらなかったのです。「愛」で私たちを、子どもたちを受け入れてくださったのです。
多くの家族の問題をお聞きし、一緒にその問題に取り組んできたつもりですが、私は何もできていません。「良い家族」でなくて、問題が次々起こってきても、その問題から逃げること無く、諦めること無く、忍耐をもって解決に向かわれる家族の麗しさを見ているだけでした。そこに確実に家族の成長を見るのです。
子どもの自立を願って子育てをしているわけですが、自立とは単に「自分のことは自分でできる」だけではありません。その上で、「他の人のことを顧みる心をもっている」ことです。他の人の痛みを自分の痛みとして感じ、その人のために自分のできることをしようとする力をもっていることが自立した姿だと思います。
家族の自立、家族の成長というのもそういうように、「うちの家族は良い家族だ」と自己満足で終わるのではなく、色々問題があって、決して「良い家族」と言えなくても、他の人を思いやれる家族となり、他の人々のために祈る家族は「うちの家族って、『いいね!』」と言えるのではないでしょうか。
先日(9月23日)、私の属する日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の本部地にある中央聖書教会に行ってきました。その日、恒例の関東北東教区の壮年・婦人集会がもたれ 家族って『いいね!』 というテーマで集会がもたれたからです。どういうわけか、今回は私を講師に招いてくださったのです。
このお話をいただいたときから私は一生懸命「良い家族とは?」ということを考えました。そのうち、「良い家族」と「家族って、いいね!」には違いがあるような気がしてきたのです。そのニュアンスの違いを感じながらも、知恵の無い私はなかなかその違いを上手く説明できず、このまま集会に突入するのはイヤだなと思っていました。その結果、「良い家族」と言えなくても「うちの家族って、いいね!」と言えることを発見したのです。何となくすっきりしたのですが、まだ説明は難しかったです。
子育て問題だらけ
私は高槻・新中野教会で合計26年ほど「子育ての会」を開いています。高槻では5カ所でその会をもち、毎回合計すると60-70名のお母さん方がお出でになっていました。新中野ではいつも数名の集まりなのですが、少ない人数というのはまたじっくり話せる良さもあります。
この26年間でお母さん方から受けた質問や相談というのは、「なかなか、おしめがとれない」「指しゃぶりは治るだろうか」「偏食が激しい」「チックがある」「アレルギーで大変」「お母さんの言うことを聞かない」「やたら反抗する」「じっとしていない」「すぐ叩く」などから「学校に行かない」「いじめで困っている」「しゃべらない」「自閉症だと言われた」「鬱かもしれない」「障害があるのだろうか」「リストカットした」「死にたいといっている」「家で金属バットを振り回した」「素手でガラス窓をたたき割って大怪我した」というような幅広いものでした。
また、子どもさんの問題では無く、お母さんご自身、あるいはご主人のこと、夫婦仲のこと、ご両親のことなどもたくさんありました。「夫が子育てに協力的で無い」「夫が家に帰ってこない」「夫婦の喧嘩が絶えなくて離婚を考えている」「子どもを叩いてしまう」「子どもが愛せない」「姑がやたら子育てにもうるさい」等々。
私には答えられない質問・相談も続出でした。このように、私の周りには家族の問題が絶えないのです。ですから。果たして「良い家族」って何だろうと考えてしまうのです。
夜回り先生から
「夜回り先生」で有名な水谷修先生の講演を聞いたり、本を読んだりすると、思春期の子どもたちの大変な話がたくさん出てきます。「死にたい」とメールしてきて、実際死んでしまった人が何人もあるというのです。夜の町を徘徊し、薬物にはまり込んでいく、家に帰らない子どもたち。親御さんはどんな気持ちだろうかと思います。
「あした笑顔になあれ」の18ページ「こころを閉ざして」に、このようなことが書かれています。
もし、みなさんが毎日「何をやっているんだ、急げ、急げ」とお尻をたたかれ続け「そんなことじゃだめだろう」としかられ続けたらどうなりますか。
でも、いまの子どもたちは生まれた時から十数年間、特に小学校高学年から中学校・高校の間は、まさに後ろからお尻を叩かれ、追いつめられています。また、毎日「何をやっているんだ、がんばれ」と厳しい言葉にさらされています。
たしかに、それでも救われている子どもはいます。
それはある意味で生まれつき能力的にすぐれている子どもたち、あるいは、つらい家庭や学校という状況のなかにあっても、じつはあったかいお母さんがいたり、あったかい先生との出会いや、誰か優しい大人のとの出会いがあった子どもたちです。
でも、私はこの子どもたちはいまの日本のなかで全体の七割ほどだと思っています。三割ほどの子どもたちが毎日追いつめられ、毎日厳しいことばをあびせられる中で、自分を見失っています。「私なんかいなくていいんだ」「私がいることが親に迷惑をかける」「学校の授業についていけない、私なんてだめなんだ」と、毎夜、暗い時間になると、特に自分を責めています。
ここでいう七割の子どもたちをもつ家庭は「家族っていいね」と言えるのかも知れませんが、残り三割の子どもを持つ家庭ではどうでしょうか? また、「よい子だったのに、どうしてこんな事になったのでしょう?」と涙される多くの親御さんにも出会ってきました。
問題があっても良い
私がクリスチャンになった18歳のころ、牧師先生、役員の方々から、「クリスチャンホームをつくること」と言われました。「クリスチャンと結婚しなさい」と。
若いクリスチャンになったばかりの私には、クリスチャンと結婚するとすばらしい家庭になるかのように聞こえました。でも私の周りにはクリスチャンで無い方々の家庭でもとても仲の良い家族がたくさんありましたし、クリスチャンホームだけれど大変な家庭もありました。「いい家族」って何でしょう?
改めて、「いい家族」というより、「家族っていいね」と言えることが良いのだと思います。
クリスチャンホームになれば問題が無いわけでは無いのです。クリスチャンホームと呼ばれる家庭にも問題くらいいくらでもあるのです。大事なのは問題をどのように扱うか、乗り越えるかです。そこで「良い家族」とまで言えなくても、「うちの家族って、いいね!」と言えるようになればいいのだと思えたのです。
コルネリオの家族
使徒の働き10章に、コルネリオとその家族の救いが出てきます。
10:1-2 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
と、あります。全家族、神を恐れかしこみ、ユダヤ人に良くした人達です。自分たちの家族だけではなく、コルネリオ達はユダヤ人に良くした家族らしいのです。彼らは、異邦人でしたが、神様から忘れられることはなかったわけです。むしろ、ユダヤ人と同等に聖霊の恵みをいただくのです。イエス・キリストによる救いを家族全員が受け取るのです。
このコルネリオとその家族を考えると「良い家族」だなと思えるのです。全家族、神を恐れかしこみ、ユダヤ人に良くした人達です。自分たちの家族だけではなく、コルネリオ達はユダヤ人に良くした家族らしいのです。彼らは、異邦人でしたが、ユダヤ人の信じる神様から忘れられることはなかったわけです(もちろん神様はお一人ですから)。むしろ、ユダヤ人と同等に神様の恵みをいただくのです。イエス・キリストによる救いを家族全員が受け取って、喜ぶのです。
まだクリスチャンになっていない段階で、すでに彼らの家族というのはかなり自立したしっかり成長した家族であったように思えます。このような他の人達のことも思える家族は「いいね」と言える家族ではないでしょうか。
成長する家族
聖書の原則に従うと、幸せになるのは間違い無いです。しかし、原則というのはそれをどのように実行していくかが問われるのです。聖書の原則には厳しいことも多々あります。それを文字通り実行すると時には人を苦しめることにもなるのです。
聖書の原則の中にしっかりと埋め込まれているのが「愛」です。それも人間の持つ「愛情」を超えた深い愛です。イエス様が私たちのために十字架で身代わりになるような「愛」です。その「愛」を基にして原則が教えられています。ですから、「愛」を抜いて原則だけを貫くと、殺伐とした、厳しさだけが残ることになるのです。
イエス様はご自身は原則を貫き、罪も犯されない完璧な生き方をされました。が、その原則で私たちを裁きはなさらなかったのです。「愛」で私たちを、子どもたちを受け入れてくださったのです。
多くの家族の問題をお聞きし、一緒にその問題に取り組んできたつもりですが、私は何もできていません。「良い家族」でなくて、問題が次々起こってきても、その問題から逃げること無く、諦めること無く、忍耐をもって解決に向かわれる家族の麗しさを見ているだけでした。そこに確実に家族の成長を見るのです。
子どもの自立を願って子育てをしているわけですが、自立とは単に「自分のことは自分でできる」だけではありません。その上で、「他の人のことを顧みる心をもっている」ことです。他の人の痛みを自分の痛みとして感じ、その人のために自分のできることをしようとする力をもっていることが自立した姿だと思います。
家族の自立、家族の成長というのもそういうように、「うちの家族は良い家族だ」と自己満足で終わるのではなく、色々問題があって、決して「良い家族」と言えなくても、他の人を思いやれる家族となり、他の人々のために祈る家族は「うちの家族って、『いいね!』」と言えるのではないでしょうか。