愛の誓い

子育て通信

ネット配信の結婚式

 「ジューンブライド」と言われる6月もあっという間に過ぎた感があります。コロナ問題で「自粛生活」となり、世の中が鬱々とした感じでした。
 そんな中で結婚式を挙げた知り合いがありました。当初計画していた親族、友人に来てもらうという結婚式ができず、わずかの参列者でネット中継が行われました。私もライブでその結婚式を見ました(参列しました)が、とてもよい結婚式でした。参列者が少ないことで残念だったと思えない、何か新しい、新鮮な感じを持ちました。二人の祝福を心からお祈りさせていただきました。

忠誠を誓う

 「家族のために」という本に次のようなコラムがありました。ここからちょっと考えてみたいと思います。
 「忠誠を誓う」などということは、最近あまり言わなくなったようですが、なぜ多くの夫婦が、こんな当たり前のことを忘れてしまったのでしょうか。
 最近ある結婚式で、新郎新婦が「私に愛情がある限り、あなたと一緒にいることを誓います」という誓いのことばを交わしたそうです。
 この夫婦が長続きしたかどうかは、疑問です。 男女間の愛情は、他のさまざまな感情と同じで、浮き沈みがあります。だからこそ夫婦関係を長持ちさせるためには互いへの忠誠心が最も必要とされるのです。そしてこの忠誠心とは、感情ではなく意志の問題です。
 ところで、親が子どもに「愛情を感じている間だけは、親でいてあげるからね」などと言うことを聞いたことがありますか。
 もし、そんなことを言われたら、子どもは安心して生きていくことができません。同じようにいい加減な気持ちでは、安定感のある家庭を築き、守っていくことはできません。
 そこで伝統的なキリスト教式の結婚式では、「健やかなる時も、病める時も、富める時も貧しい時も、堅く節操を守ることを誓います」と新郎新婦は誓うのです。列車に例えれば、感情は二号車以降で、運転席のある先頭車両にあたるのは、日常のアップダウンにもめげず、終着駅まで行きつこうという「堅い意志」なのです。

誓約だけの結婚式

 牧師の私は何回結婚式の司式をしたでしょうか? 結婚は確かに式を挙げなくてもできます。婚姻届を出せば夫婦になれます。しかし、私は結婚式を大事に思っています。ただ、豪華な結婚式をするとか質素な結婚式をするとかそういうことは気にしません。結婚式で大事なのはその中でなされる誓約です。キリスト教式の結婚式ではこの「誓約」が中心で、その他のことは仮に無くてもかまわないと思っています。
 結婚式がすぐにできないというカップルのために礼拝の後、この誓約の部分だけを行う式をしたことがあります。ウエディングドレスでなく、入場もありません。礼拝後まだ皆さんが残ってくださっている間に、二人を講壇の前にお呼びし、私は「健やかなる時も、病める時も、富める時も貧しい時も、堅く節操を守ることを誓いますか?」と聞きました。二人はそれぞれ「はい、誓います」と言って、指輪の交換をしました。これだけの式ですが、教会員からは大きな拍手で祝福をしていただきました。

礼拝後の結婚式

 また、20数年前のことですが、あるカップルが教会に来られました。どうしてお出でになったのかお話を聞くと、お金が少ししか無いのだけれど教会で結婚式を挙げたいと思い、最初は別の教会に行かれたのですが断られたので、ここもダメかなと思いつつ、インターホンを押したそうです。
 そこからキリスト教式の結婚式について説明しました。よく理解してくださって、礼拝にも出席してくださいました。二人は経済的なことがあり、家族と数名の友人だけを呼んで結婚式をしたいと願っておられました。ドレスにしなくてもよいことなどお金のかからない方法をお教えしました。そこで、教会員もお手伝いくださって、礼拝後、バージンロードを敷いて、ベンチにリボンと花を付けました。ある方が教会にくださったウエディングドレスを合わせるとピッタリだったので、それを着ていただくことができました。
 式が終わって彼女は泣きました。もちろんうれし泣きでしたが、「教会の皆さんがこんなにも良くしてくださって、祝福してくださるなんて」と声が震えていました。

神に誓っている

 ちょっと話はそれましたが、とにかくどのような結婚式を挙げようが、大事なのは二人の互いに対する「誓約」です。そして、誓約というのは二人で交わすだけでは無く、神に対してするものなのです。二人の誓いは互いに対等ですから、その誓いは二人の程度止まりです。しかし、神様は最高のお方です。最高裁の裁判長に誓う程度ではありません。
 なぜ教会で結婚の誓いをするのか? 教会は神のおられるところを象徴しています。その神の前で神様の言葉を代わって語る牧師から「誓いますか?」と聞かれ、「はい、誓います」というのは、生涯この人を愛するという自分の意志を、相手に対してもですが、神様に対して意志を表明して誓っていることになるのです。
 ですからこの誓いはそう簡単に破ってはいけないことは当然です。

子どもを愛するという誓い

 最初のコラムで子どもに対する愛のことが書かれていましたが、近年、児童虐待する親、子どもを捨てる親が増えているようです。それは許されるでしょうか? 許されないのは当たり前ですが、この子どもを愛するというのは親の側の「意志」であって、結婚の誓約と同じです。「子どもが良い子でいる限り愛するけれど、言うことを聞かなくなったら愛さない」というようなものではありません。また、虐待する親が簡単に「しつけをしただけ」とか、「愛の鞭です」と言うのですが、本当にその子を愛してしているでしょうか。愛の意思では無く、感情に過ぎません。

子ども祝福式

 私たちの教会では子どもの成長を祈ることをよくしています。そのイベントの一つは七五三の時期に合わせて、「子ども祝福式(七五三祝福式)」をします(子ども達にプレゼントもします)。それは教会のみんなは子ども達を大歓迎しているということ、「愛していますよ」という意思表明です。教会というのは家族的なところですから、よその子達も我が子のように愛するのです。ですからその祝福式は子ども達の成長を祈るだけでは無くて、大人もこの子ども達のために祈り続けるという意志を固める時でもあるのです。また、「子ども達の模範になるように努力するぞ」という意志を決意するときでもあるのです。

献児式

 さらに教会では「献児式(けんじしき)というのも行います。世の中では「お宮参り」をされる家庭も多いようですが、教会では子どもの祝福を祈るだけでは無く、「この子は神から与えられた大切な子であり、私たち夫婦のものではなく、神様の子どもです」という認識に立ち、この地上での親として自分たちが選ばれたことを感謝し(この子を与えてくださったことを感謝し)、しっかり親として愛していくことを誓う式でもあるのです。この時も教会のみんなが、その子とその両親の祝福を祈ります。

献自式・十字架

 子どもを愛するという決意はもっと広げていくと「全ての人を愛します」と言うことになっていくのですが、これはなかなか私たちには難しいことかも知れません。
 それができた人はイエス・キリストだけです。イエス・キリストはご自分をささげてくださいました。まさに「献自式」ですね。それが十字架でした。私たちを命をかけて愛してくださったことを明らかに示すときでした。
 聖書にこんな言葉があります。

 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

ヨハネの第一の手紙 3:16-18

 愛する決意をして過ごすことができたら、本人も幸せですし、子ども達も幸せです。愛は意志であることを覚えて愛し合いませんか。

子育て通信

Posted by shinnakano