子育ての卒業式って?
思い出せない
3月、卒園、卒業のシーズン。私も幼稚園を卒園し、小学校、中学校、高校、大学を卒業して、神学校も卒業しました。しかし、卒園式はどんなだったか全く思い出せません。
小学校の卒業式、一人一人壇に上がって校長先生から卒業証書を受け取るのですが、練習の時しか思い出せません。
中学校の卒業式、全く思い出せないのです。高校の卒業式、これまた思い出せないです。大学の卒業式も思い出せないですね。神学校の卒業式は覚えているのです。一体、私の記憶はどうなっているのでしょう。
覚えている
でも、教師時代の教え子達の卒業式は覚えています。
一つは病欠の先生の代わりに入った小学校です。8日間だけ私は6年生の担任をしました。小学校の教員免許も無いのに、教育委員会・教育長の計らいで私をバイトで担任にしてくださったのです。その生徒達の卒業式に呼ばれたのす。
その日は産休の事務の方の代わりで中学校の事務室にいました(教員免許なのに事務の仕事しているのです。これまた教育委員会のどういう計らいでしょう?)。生徒達から呼ばれているとは言え、仕事を抜け出して行くわけにもいかないと思っていたのですが、校長先生が事務室に来て「藤井君、行っといで!」と言ってくださったのです。嬉しかったですね。体育館で3ヶ月ぶりに見る彼らがグッと成長したように見えました。
思い出だらけ
そして、中学校の正教師になり1年生から3年生まで持ち上がった学年の卒業式。私は美術の担任だったので、11クラス全員を知っていました。私のクラスの子達のことはもちろんですが、どの子も卒業するのがさみしく感じられました。
色々な思い出が込み上げてきました。摂津峡(高槻にあるきれいな渓谷)で何度もやった飯ごう炊さん、大晦日の夜中から歩き始めた元旦ハイキング、文化祭、体育祭、陸上部、一緒に食べた弁当の時間、美術準備室で生徒の悩みを聞いて「けいろう・悩みの相談室」と名付けられ結構繁盛したこと、真夜中に電話がかかってきた生徒の家に行って警察官に帰っていただいて話し合ったこと、体育祭の予行演習の時に消えた生徒を探しに摂津峡を走り回ったこと、・・・キリがないくらい思いだして、思い出に浸っていました。
泣かなかった
自分のクラスの生徒の卒業証書授与の時になりました。急にドキドキしだしました。みんなの名前を間違えずに読み上げることができるか? 泣かずに読み上げることができるか?
名前を読み上げ始めると案外気持ちは落ち着いて、一人一人の顔を見て呼ぶことができました。泣かずにすみました。逆に後で生徒達から「先生、全然泣かへんなあ」と言われてしまいました。
実は泣いている場合では無かったのです。一人の男子生徒が受験に失敗し、卒業時点でまだ行き先が決まっていなかったからです。3次試験を受けることになり、その準備がまだ残っています。卒業式が終わって、生徒達が出て行く時、彼の発表の日にみんな集まろうということになりました。
春休み、学校はガランとしていたのですが、私は彼の結果を気にしていました。そして次々に生徒が集まってきました。発表を見に行った彼が帰ってきました。「合格!」「やったー!」みんな自分のことのように喜んでくれました。やっと卒業した感じがしました。そんな彼らが今は50歳かな??
次のサイクルで
私はその次の学年の卒業式にも出るはずでした。その学年の生徒達が入学してきたとき、「オー、子どもだ」と思いました。中学校の3年間というのは子どもから大人に変わる時期みたいです。その子ども達のクラス担任にはなりませんでした。生徒会の担当になったからです。
そして、彼らが3年生に上がろうとするとき、私は教師を辞めました。修了式の日に退職する先生方の紹介を校長先生がされます。「藤井先生はこの度、キリスト教の牧師になるために東京の学校に行くことになりました」と校長先生から言っていただいている間、私はステージの上からみんなを見回していました。自分が卒業するみたいな気分でした。こんな私でも慕ってくれる生徒達がいまして、結構体育館はどよめきました。
職員室に戻り、片付けていると、生徒達が次々来てくれました。この時はさすがに「教師を辞めたくない!」と心に痛みを覚えました。
ぎゅうぎゅう詰めの礼拝
東京に行く前の日曜日、小さな借家の教会に50人以上の生徒達が礼拝に出席してくれました。どうやって詰め込んだのか覚えていませんが、何とかみんなを入れました。彼らと出会えたことは私にとってとても感謝でした。
彼らが私を見送ってくれたのですが、私は何かを卒業したのでしょうか? 別れという意味ではさみしくありましたが、同時にこれから先にあることを考えると希望がありました。また彼らと会いたいですし、一緒に活動したい思いは今も溢れるほどにあります。
子育ての卒業式?
果たして子育ての卒業っていつなのでしょうか? 「卒業式」ってしなくて良いのでしょうか?
生徒達と楽しく過ごしていた時、自分に子どもが与えられるなんて想像もできなかったです。そんな自分も父親になり、曲がりなりにも家内と共に子育てをしてきました。三人とも成長しました。親の私が言うのもなんですが、よい子達です。本当に感謝しています。もう子育ては終わったのかな・・・と考えてしまうのですが、終わったような、終わっていないような、終わったとしたらさみしいような感じです。こんな中途半端で良いのでしょうか? やはり「卒業式」をしてけじめをつけた方が良いのかも知れないと考えることがあります。
私の友人は子どもが大学を出たら、家も出すそうです。それは「卒業式」だなあと思いました。一人前とみなして家から送り出し、一人で生活させる。「すごいなあ!」と思います。
家を出たのは
私が家を出たのは神学校に入る時で28歳でした。その時まで両親に子育てをしてもらったという感覚は無いのですが、母親は私が中学生の時から教師を辞めるまでずっと弁当を作ってくれました。甘えていたのかも知れません。
今でも、このことは母親に感謝しています。ひょっとすると28歳まで私は子育てをされていたのかも。
両親に感謝している
18歳でクリスチャンになった時、父親に「キリスト教をやめろ!」と怒鳴られ、「絶対にやめへん!」と反抗したものの、家には居続けたのですから、父親にも感謝しなければなりません。
元旦ハイキングで生徒達50人を一旦わが家に入れた時も喜んで迎え入れてくれた両親。この二人の助け無しには私は教師もやり続けられなかったと思います。育ててもらっていたのですね。子どもは一人で大きくなったような気になりますが、どれだけ親の助けをもらって生きてきたのでしょう。 感謝! 感謝!!
子育ての卒業・・・いつなのでしょうね?
思い出せない
イエス様は30歳になって宣教活動に出られたそうです。すでに父親のヨセフは無くなっていたらしいのですが、母マリヤはずっと、不思議な誕生をしたイエスが、神の子であることを思い、育ててきました。遂に宣教活動を開始した時、「その時が来た」と思ったかも知れません。イスラエルでは13歳で成人式を迎えますが、イエス様は早くに自立して家を助けておられたのでしょう。
そして、わが子イエスが十字架で死んでいくのを母マリヤが見るとは・・・「親より子どもが先に死ぬことが最大の親不孝だ」と言われますが、イエス様は最大の親不孝だったのでしょうか。
イエス様の場合は、その後復活されているので、最大の親孝行をされたと言えます。
「死んだら終わり」ということをよく聞きます。確かにこの世での働きは終わってしまいます。しかし、イエス様はその十字架の死が世界最大の仕事であったのです。しかもイエス様は復活されたので、その仕事は終わっていないのです。イエス様には卒業は無いのです。今も目には見えなくても私たちを助けてくださっています。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
マタイの福音書 28:20