モーセの如く
主が共にいる人生

モーセの如く

礼拝メッセージ

2022/9/18 礼拝説教
【テーマ】  主が共にいる人生
【説教題】 「モーセの如く」
【聖書箇所】 出エジプト記40章

40:17 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。

40:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。
40:38 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。

出エジプト記40章

○ 今日はシルバー祝福式を行います。
 人生で真に祝福された人というのは神が共におられる人です。

  出エジプト記を今日で終わります。8月28日の礼拝で、神が幕屋を造るように指示されてその構造等をお語りしました。なぜ「幕屋」を造るようにされたのかというと、神がイスラエル人と共にいるためです。この地上は汚れていて、神の住むことのできる聖い場所はないので、その聖い場所を造られたのです。神は最初この地を人の住まうところとして造られました。今度は神の住まいを罪深い人に造らせたのはおもしろいことだと思います。

神の栄光に満ちる人生がある

雲と栄光

    1.幕屋が完成し、モーセは大祭司としての働きをしました。すると、 40:34 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。 と、「雲」が幕屋を覆ったそうです。ここに出てくる「雲」はどのような雲なのでしょうか? それは神の栄光の雲です。

    2.なぜこんなにまですごい臨在があったのでしょうか? それは神の言われるとおりに幕屋を造ったからです。罪人であっても神のことば通りに実行すると神はその栄光を表してくださるのです。私たちの人生も神の言葉に従っていくなら、神の栄光現れる、神の臨在豊かな人生を送ることができるのです。

    3.教会を雲が覆い、誰もその中に入れなかったなんてことがあるとすごいですね。また、夜には火の柱が立ち上るということが。それだと消防車が来るでしょうね。しかし、神の臨在に満ちたということは私たちの教会にも多々あると思います。もちろん、毎週の礼拝がそうであることが望ましいです。

動くも留まるも神次第

    1. 40:36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。 とあるように、彼らは神の導きに従いました。神が動かれるとみんな動くのです。雲が上る時には「約束の地に行くのではないか」と期待したことでしょう。しかし、40年間も荒野をさ迷うのです。神の導きだからといってスムーズに進むわけではないのです。

    2.また、 40:37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。 とあるように、人生は前進ばかりでは無く、その場に足踏みさせられる、留まることが多々あるのです。人によってはそれは病気で思うように前進できなくなったというようなことです。年配者にとっては若いときのように動けなくなるということです。

    3.しかし、留まるということは「信仰に留まる」というとても大事な「留まり」があります。この「信仰に留まる」ことこそ人生で最も大事なことではないでしょうか。皆さん、信仰に留まり続けてください。

モーセのように主に謙遜に生きる

自信を失っている者が用いられる

    1.モーセは何才で神に従いましたか? 80才ですよ。彼は神に召された時、「私にはできません」と拒否しました。しかし、あまりにも強く神が「行け」と言われるので彼は折れたのです。それほどにまで神の臨在があったということです。そして遂に神を信じてエジプトに行きました。

    2.彼はまさか自分がイスラエル人を救う働きをするとは考えてもみませんでした。何しろ80才にもなっているのです。しかも上手く話ができる人ではなかったのです。そして出エジプト後、40年間荒野での生活が続きましたが、その時も120才まで彼はリーダーとして働くのです。

    3.モーセは「まさか自分が?」と思ったのです。モーセは謙遜でした。神の導きというのは私たちが自信に満ちているときでは無さそうです。年をとって「もう何の働きもできない」と言うクリスチャンがおられますが、そういう自信が無くなっているときに神は良き働きをさせてくださるのです。年配者の方が礼拝に出席するだけで雰囲気が良くなります。その存在がすでに良き働きなんですね。

強固な教会には突っ走る者と留まる者がいる

    1.年配者の皆さん、この地上に生かされているのはモーセと同じです。もちろん働きはモーセと違いますので、エジプトへ行くのではありません。杖は持つかも知れませんが(笑)、人々を救いに導くという働きは同じです。人を救いに導くのに年を取りすぎたということは無いようです。

    2.比較的若い人は突っ走る傾向にあります。そして、人生経験が少なく、信仰経験も少ないですから、正しい判断ができなくて失敗してしまうことも多いものです。一方、年配者は今までの人生経験から留まるべき時には留まります。信仰は「進行」と思われがちですが、動かない事も大事なのです。それは神が「留まれ」と言われるときです。

    3.突っ走ることのできない年配者が突っ走る若いクリスチャンのためにしっかりと腰を落ち着けて祈るならなんと強固な教会ができることでしょう。

● S先生は後任の先生にバトンタッチされると、ある老人ホーム(立派なところではありません)に自ら入られて大部屋のベッドに寝ておられました。神学生だった私が面会に行きましたら、くつろぐこともできないような大部屋のベッドで、隣のベッドのおばあちゃんに伝道されていたのです。先生は「この老人ホームに入って良かった」と言われました。それは「大部屋で伝道する人がたくさんいるから」ということでした。動けない自分だから動けない方々に伝道できるというのです。何才になっても伝道できるのだなあ、と感動して老人ホームを後にしました。

★ 年配者には年配者にしかできない働きを神は用意されています。モーセの如く神に従いましょう。教会は皆さんを必要としています。