自分を振り返ってみれば 4
ビリを走っていた
「笑う子どもは頭がいい」ということを聞きました。自分もよく笑っていたと思うのですが、頭の良くない子もいるのかも知れません。
振り返ると、いじけていた子どもだったようなところがあります。3月生まれということもあるのでしょうか、幼稚園でも、小学校低学年でも運動会ではたいていビリでした。
どこか自信の無い臆病な子でした。「臆病」は未だに治っていません。高所恐怖症でもあるし、運動神経もいまいちでしたから、幼稚園でも小学校でもジャングルジムは嫌いでした。みんなはあっという間にてっぺんに登るのですが、私は登れなくて、何とか登ってもしがみついていて、今度は降りるのが大変でした。
友人の力
こんな私を最初に変えてくれた友人がいます。彼のことは前にも書いたような気がしますが、そのJ君はやんちゃ坊主でした。けんかっ早く、まあワルでした。おとなしく臆病な私なんかと、とても友達になるタイプではありません。4年生の時、J君は運動会で1500mに出ることを決めました。1500m走は4~6年生の24名が走ります。当然4年生は高順位になる事はないのです。でも走りの早い彼は立候補していました。その何日も前、彼は休憩時間になると、私を運動場に誘うのです。一緒に走ろうというのです。運動会でたいていビリを走っている私です。彼の練習相手にもならないのに、なぜか私を誘うのです。そして、毎日、毎日休み時間毎に運動場を走りました。するとなんとなく私も早くなってきたのです。そして、走るのが好きになりました。
選手になった
1500m走の選手を決めるための体育の時間、1500mを走って、各クラス上位4名が選ばれるのです。なんと私は4番目に入ったのです。自分でもビックリしました。J君もとても喜んでくれました。
運動会当日、私の家族は私が1500mの選手に選ばれたことに驚きつつ、でも期待して来ました。障害物競走はやはりビリに近い成績でしたが、徒競走は上位に入りました。そして、1500m走ですが、ビリでは無かったのですが・・・というような順位でした。でも、完走できただけで満足でした。
このことがあって、私は走るのが好きになりました。5年生でも1500m走の選手に選ばれ、真ん中より上になったのです。6年生では4番くらいになれたのです。冬のマラソン大会で3kmくらい堤防を走るのがあるのですが、これも6年生の時は3番くらいにまでなったのです。
ちょっとだけ自慢:六年生の時、市内の小学校連合運動会の1500mの選手になったのです。うちの学校から3名です。私はその3番でした。当日、私のレースは12名で走り、6番でした。決勝には出られませんでした。でも、満足です。
ちょっと自信がついた私
運動神経のにぶい私でもただ走るだけだとなんとか成績が上がったというわけです。
とはいうものの、やはり体育は苦手でした。泳げるようになったのも5年生です。水が恐くてそれまでプールには入るのですが泳げなかったのです。
5年生の夏休み、学校のプール開放に誘われて行った時、友達が私をプールに落としたのです。その時、水を飲んだのですが、水の中で目を開けていたのです。そして、自分が浮く体験をしたのです。今まで水の中で目を開けられなかったので、泳げなかったのです。
この時を境にプールも好きになりました。目を開けたら浮いていられたのです。何とか平泳ぎらしいものを覚え、6年生の時は校内の水泳大会で25m平泳ぎに出るのです。ビリでした。でも、100mは泳げるようになったのです。恐かった飛び込みもできるようになったのです。6年生の夏休みは学校のプールや市民プールにしょっちゅう行っていました。クロールもバタフライもダメです。平泳ぎと犬かきと横泳ぎだけです。
中学では・・・
中学校に入ると、サッカーが好きになりました。だいぶ早く走れるようになったからか、サッカーも楽しかったのです。でも、基本的に臆病ですから、なかなかシュートできません。
中学ではサッカー部か剣道部に入ろうと思っていたのに、友達に誘われてブラスバンド部に入ってしまいました。前にも書いたとおり、音楽はできない私がブラスバンド部に入ったのは、顧問の先生がすごく楽しい先生だったからです。それで私は音楽が好きになるのですから、これもまた良かったのです。
ところが3年生の途中で、ブラスバンド部の仲間と喧嘩してしまい、やめてしまいました。3年生というのは私の心がやや荒れていた頃です。
そこで、また友達に誘われて陸上部に入りました。2ヶ月くらいで終わってしまいましたが・・というのも、心臓検診でひっかかったからです。
高校では・・・
高校生になっても、検査の結果、運動部禁止、激しい体育は禁止でした。
やっと運動の楽しさを感じていたのに、残念でたまりません。幸い普段の体育はOKだったので、走るのも球技も楽しかったです。体操、跳び箱、鉄棒などは全くダメでした。臆病だから恐いのです。
ブラスバンドか何か音楽系の部活にでも入ればいいのにと思いますが、やはり基本的に音楽はできないのです。楽器がダメなだけじゃ無くて、楽譜も読めないし、もちろん音感も無いです。歌っても発声も良くないし、要するに音楽的才能が無いのです。でも、私にとってあの中学時代の2年少しのブラスバンド部は楽しかったです。先生が楽しかったからに尽きます。
ですから高校では放課後何もしないで帰っていましたが、反抗期も相まってどうなってもいいというような気になっていました。そこで、心臓検診でひっかかって私と同じく運動部禁止の友人と一緒にジョギングを始めたのです。その時は「死ぬなら死んでもいいや」と軽く考えてしまう年頃でした。部活では無いので、校外を走っていたのです。
ところが、面白いことにこのジョギングでどんどん走るスピードが速くなりました。毎日10キロ以上を走り、運動部の連中も一緒に走ったりするようになりました。運動部を辞めた仲間も加わって、毎日数名から10数名で走っていました。田んぼや畑がまわりにある農道や近くの山道、渓谷の細い道を走っていたので、いつしか「視線に親しもう友の会」なんて名称をつけていました。
正直なところ、高校生の思い出の一番はこれです。
クリスチャンになって
運動能力はずっといまいちでしたが、運動も好きになったのは、こうした事があったからです。そのスタートはあの小学4年生の時のワルJ君のお陰でした。
クリスチャンになった大学生の時、私は教会でも小・中・高生のスタッフをしました。夏休みなどは小学生のキャンプ、中学生のキャンプ、高校生のキャンプがありましたので、夏休みは自分のための時間はほとんど無いくらい、彼らと遊びましたし、聖書を学びました。
どのキャンプでも遊びと運動、キャンプファイヤーなどのイベントをやっていましたが、私は疲れを覚えないほど元気でした。
中学校の教師の採用試験のことは別に書きたいと思いますが、採用試験に受かったものの、心臓検診などの問題がありました。ところが、あれだけ走ったりしてきたのに、検診の結果はOKでした。だから教師になれたのです。神様に感謝しました。
おくびょうの霊では無いのに
聖書で「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(新約聖書Ⅱテモテ1:7)とあるのを発見した時、ビクッとしました。
何しろ、未だに臆病だからです。クリスチャンになって、確かに私は変わりました。でも、性格的にもっている臆病はなかなか消えません。
でも、振り返ってみると、あのやけっぱちになっていた中学・高校時代、さかのぼって「自分にはできない」「がんばったって勝てない」と強く思い込んでいた小学生時代。その頃の自分と比べても仕方が無いのですが、確かに自分には不思議な力が与えられたとわかります。決して自分の努力で得たものでは無いのです。だから、親となって子育てをしても、何か肩に力が入らないでできた気がします。
愛と慎みは残念ながらまだ無いです。これらの良きものをこれからいただきたいです。