主を待ち望んだシメオン
ルカ2:22-35

主を待ち望んだシメオン

礼拝メッセージ

2022.12.18 礼拝説教
テーマ:信じて待ち望む
説教題:「主を待ち望んだシメオン」
テキスト:ルカ2:22~35

2:22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
2:23 それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
2:24 また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

ルカ2:22~35

御言葉を信じる

シメオンは「主のキリストを見るまでは、決して死なない」という約束を信じて待った。それは同時に、救い主を見たら彼は死ぬということでもあった。自分の命が終わってしまうなら、なるべく長い期間会わないほうがよいのではないか。そうではなくて、シメオンは自分が死んでしまおうとそれは神の定めた時であることを知っていたのだろう。何より救い主に会うことの方がどれだけ素晴らしいことか。彼はその出会いを信じて何十年も待ち続けた。
シメオンという人物はどのような立場にあった人か、詳細はわからない。聖書には彼が、「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。」とあるだけだ。古代イスラエルの習慣では、両親は幼子を高名な老祭司やラビに抱いてもらい祝福を受けるために神殿にのぼった。しかし、シメオンが祭司かラビ(ユダヤ教の先生)だったとは書いていない。おそらく彼はいつでも神殿に来られるように、エルサレムに住み、敬虔で、信仰の篤い人物であったと思われる。シメオンは「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。」とあるが、これはつまり、イスラエルに救いがもたらされることを意味している。聖書の御言葉にある救い主出現の約束を、彼は堅く信じていた。
旧約聖書においてイエス・キリストに関する預言は75個あると言われる。(109個というものもある)ここではごく一部の預言を取り上げる。(創世記3:15、イザヤ7:14、9:6、11:1、Ⅱサムエル7:12、13、ミカ5:2)

三重の聖霊の働き

シメオンについては異常なほど「聖霊」が強調されており、25、26,27の各節に聖霊が現れる。彼は祭司ではないが、聖霊によって預言する預言者であろう。このようにイスラエルの慰めを待ち望ませたのも聖霊だが、このイスラエルの慰めとは、彼が「イスラエルの誉れ」(:32)である救い主を見ることにあった。
ついに彼は救い主に出会い、イエスを抱いて神を賛美する。これは、「シメオンの賛歌」と言われている箇所である。シメオンに死が迫った。しかし、それはユダヤ人のみならず、異邦人にまで及ぶ全世界の人々の救いを目にしたからであった。何という光栄であろうか。

幼子の定め

マリアにとって、シメオンの言葉はどのように受け止められただろうか。子どもの誕生は母親にとってこの上ない喜びである。だが、シメオンの言葉は不吉なものであった。イエスを信じない者にはつまずきとなり、信じる者には大きな力となる。それゆえに、信者と不信者との分断があらわにされる。やがてイエスは十字架にかかられる。母マリアはそれを目にし、心が張り裂けんばかりになるだろう。
幼子イエスには受難が待ち受けている。イエスは私たち罪人を救うために死ななければならない。誰でもいつかは死んでしまうものだが、死ぬために生まれてきた者はいない。そのような定めをマリアは受け止めなくてはならなかった。しかし、イエスは死で終わるのではなく、復活し、信じる私たちに永遠の命を与えてくださるのである。

結び
シメオンはイエスを見るまでにどれだけの時を待ったであろう。さて、あな
たは今まで何を待っていたのか、またこれから何を待つのだろうか。日常生活には楽しいことも辛いことも起こる。しかし、私たちはシメオンのように、いつも神にあって変わらない日々を送ろうではないか。そして、神に期待し、ひたすら信じて待ち望もうではないか。