バベルの塔は完成しなかった
バベルの塔は完成しなかった

バベルの塔は完成しなかった

礼拝メッセージ

2021/11/7 礼拝説教
【テーマ】  本当の一致
【説教題】 「バベルの塔は完成しなかった」
【聖書箇所】 創世記11:1-9

11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
11:2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
11:6 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
11:8 【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことばを混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。

創世記11:1-9

○ 日本には世界一と言われる塔「スカイツリー」があります。超高層ビルの一位はドバイにあるブルジュ・ハリファその高さは828mです。人は高いものに憧れるのでしょうか。一体バベルの塔は何メートルだったのでしょうね。

神無しに一つになろうとした

自分たちの町を造ろうとした

    1. 

さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。 

創世記11:1-2

と、エデンの園というすばらしい地からアダムとエバは出なければなりませんでしたが、その後、人々は罪に罪を重ね、結果ノアの時代の大洪水で滅びました。せっかくノア一家によって新しい正しい人たちが増え広がるのかと思いきや、また人々は悪くなっていったのです。

    2.神との関係が切れてしまった人々は自分たちの安心できる地を探しこのシンアルの地に来ました。ここにエデンの園ならぬ自分たちの町を造るためです。それも神に邪魔されずに過ごせる町を造ろうとしたのです。

    3.建築材料がよいものになったので、大きく高い町と塔を建てることにしたようです。そのような建築技術が進んだ事はよいことです。また、人々は 全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった ということは一致しているように見えますから、これも良いことのように見えます。

神に従わない町づくり

    1.問題は動機でしょう。 さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。 と、言っています。神よりも自分のためにということです。それは自分たちが神の上を行くことを目指したということであり、神には従わないということを宣言しているようなものです。

    2.「神に祈ったところで聞いてもらえない」「どの様にすればいいのか手っ取り早く占ってもらった方がいい」「神に従おうとすると結構厳しい」と考えてしまうのです。偶像や占いなどに頼る方が楽で、自分の願いをかなえてもらえると、自分たちの思いが通る方を選んでしまいます。面倒な神を捨て、楽な偶像の元に一致集結しようと考えたのです。

町づくりができなくなった

神が降りてこられた

    1. そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。 という面白い表現がなされています。人々は神を越えるものを造って神の支配を受けないようにしようとしたのですが、何と、神は上から来られました。神はそんな人間の造った塔よりもはるかに高いところから来られたのです。彼等は高い塔を建てたつもりでしょうが、地球から見ればぽつんとイボみたいなものです。

    2.神はもっと大きな、高いところから全てを見ておられます。私たちもみんな見られています。神は彼等の中に誰も反省する者がいないことを見抜かれました。ノアのような人物はいなかったのでしょうか? 一つ心になるのはすばらしいことですが、神に反逆して一つになっては困ります。

神が言葉を混乱させられた

    1. 11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」 と、言葉を混乱させられたというのです。このことは、同時に気持ちが通じ合わないということでもあります。互いに理解できない状態にされてしまい、人々はちりぢりになって各地に散っていきました。 われわれが地の全面に散らされるといけないから と集まろうとしたのですが、その結果は散らされてしまったのです。世界に色々の原語があるのはここが源だと言われます。

    2.「言葉が一つだったら」と思うのは私だけでは無いと思います。言葉が一つだったら苦労した英語の授業も無くて済んだのです。先日ラジオで聞いたことですが、「しあさって(明明後日)」は、明日 → 明後日 → 明明後日なので、今日から3日後になるのですが、「しあさって」を4日後として言う地域があるのです。そこで「しあさって、〇〇に来てください」のように約束した人が、その人と会えなかったのだそうです。現代の日本でも方言としてこうした通じないことが多々あります。

神の求める一致とは

みこころを追い求める一致

    1.一致することは良いことですから、神も私たちが一致することを求めておられます。しかし、バベルの塔のようなものを建てることで一致することを求めてはおられません。厳しくとも神の言葉に従う事の方を選んで一致して欲しいのです。

    2.私たちの願いを神は聞いておられますが、神の御心にかなわないことは実行されません。ですから、みこころを追い求めることで一致して欲しいのです。たとえ言葉は違っても神の元で一致することを求めておられるのです。

聖霊による一致

    1.ペンテコステの日というのはそういう日になりました。聖霊に満たされた弟子達は色々な国言葉で福音を語りました。言葉を通じなくさせた神はこの日、面白いことをなさいました。言葉の通じなかった人々に異言によって言葉を通じさせてしまいました。

    2.そして、そこから全世界に福音は広がるのですが、決して楽ではありません。しかし、イエスを宣べ伝えること、イエスを頭とした教会をつくることがみこころですから、世界中に言葉も文化も色々違っても一致した教会がつくられてきたのです。これこそ聖霊による一致です。

● 私はクリスチャンになりたての頃、不思議と天気において奇跡的なことが起きました。そして、自分が祈れば雨も止むぐらいにおごり高ぶってしまいました。そのことに気づいて悔い改めてからは、祈っても簡単に雨は止みません。
  いつだったか大阪城野外音楽堂でミクタムのコンサートが行われたのですが、天気予報では途中から雨でした。私もそのコンサートに出席し、途中から会議のために抜けるのですが、みんなでコンサート終了まで雨を降らせないでくださいと祈りました。遂に周辺では雨が降り始めました。私は会議に行きましたら、大雨になっています。ところが、会場の方を見ると光が差しているのです。後になって報告がありましたが、なんとあの会場周辺だけコンサートが終わるまで雨は降らなかったそうです。私の祈りのお陰でしょうか?とんでもない、神のみこころだったから、多くのクリスチャンに聖霊が働いて一致した祈りをさせられたのだと思います。

★ 神の願われる一致は、みんながみこころを追い求めることの一致であり、聖霊によって一致することです。自分の願いをかなえてもらうために神を利用するのではありません。祈りの言葉は色んな国語であっても神との一致を与えるものです。